今日は霊長類の持ち出しです。

練乳ソースが入ったココアアイスを、ミルク入りアイスでコーティング。ココアアイスって、ありそうであんまないでしょ。希少な味わいの棒付きアイス。
竹下製菓は佐賀の会社で、ブラックモンブランが有名ですね。基本的に、販売地域は九州一円で、九州外では入手できません(たぶん)。
ブラックモンブランは今では東京でも売ってるようですが、おゴリまっせは未進出のはずです。どうぞ九州までおゴリまっせを食べにお越しください。
で、なんでおゴリまっせっつーのかと言いますと、このアイス、当たりが特殊だったんですよね。普通は「1本当たり」で、もう1本もらえるわけですが、おゴリまっせは「10円当たり」とか「20円当たり」とかで、その合計がアイス1本ぶんになったら交換できる、というシステムだったんです。
今は普通の1本当たりになってますけど、僕が子供のころはそうでした。システムが変わったのは、子供が1本ぶんの当たりを集める前に、当たり棒をなくしてしまうとか、アイスを売ってるお店が、当たり棒を何本もあつかうのがわずらわしいとか、そーいった理由があったのでしょう、たぶん。
前回、斉藤和義さんの「ずっと好きだった」について話しました。
世間では名曲として通っているけど、自分はそう思えないという話でした。今回は、まあその続きみたいなもんです。
斉藤さんは2011年に、東日本大震災をきっかけとした福島第一原子力発電所の事故を批判するため、自身の「ずっと好きだった」の替え歌、「ずっとウソだった」を作りました。
この歌の発表にはちょっとした経緯があり、発表後の大きな反響もあるのですが、個人的にそのへんの詳細には興味ないので、気になる方は各自調べていただくとして、ここで言いたいのは、この歌も名曲としていいのか、ということなのです。
ちゃんとした評価のため、歌詞をご存じじゃない方もいらっしゃるでしょうから、まず全文を記載します。
この国を歩けば原発が54基
教科書もCMも言ってたよ安全です
俺たちを騙して言い訳は想定外
懐かしいあの空
くすぐったい黒い雨
ずっとウソだったんだぜ
やっぱばれてしまったな
ほんとウソだったんだぜ
原子力は安全です
ずっとウソだったんだぜ
牛肉が食いてえな
ほんとウソだったんだぜ
気づいてたろこの事態
風に舞う放射能は
もう止められない
何人が被曝すれば
気がついてくれるの?
この国の政府
この街を離れて
うまい水見つけたかい?
教えてよ!やっぱいいや・・・
もうどこも逃げ場はない
ずっとクソだったんだぜ
東電も九電も
北電も関電も
もう夢ばかり見てないけど
ずっとクソだったんだぜ
それでも続ける気だ
ほんとクソだったんだぜ
何かがしたいこの気持ち
ずっとウソだったんだぜ
ほんとクソだったんだぜ
ずっとウソだったんだぜ
ほんとクソだったんだぜ
この歌は発表後、大きな反響を呼びました。特に左側には歓迎され、反原発を象徴する歌として祀り上げられました。つまり、多くの人が斉藤さんに共感したのです。
でも、僕は受け入れがたいものを感じました。うろ覚えなのですが、誰かがどこかの媒体に、この歌を批判した文を寄せていまして、大略次のようなことを書いていたんです。
「斉藤さんは騙されたと言っているが、この国の原子力政策、大人であれば知らないはずはない。斉藤さんもいい歳した大人だし、何よりミュージシャンなのだから、コンサートや音楽フェスの電力の一部が原発によってまかなわれていることくらい知っていたはずだ。なのに知らなかったなど、無垢な子供のようなことを言うのはおかしい」
僕、完全に同意見なんですね。斉藤さんは、いっさい罪のない善の立場から原発、および原子力政策を批判しています。「自分(および一般国民)=善」対「国、および原子力政策にたずさわる人々=悪」という対立構造で考えているのです。
でも、それは正しいのか。本当に斉藤さんを含めた一般国民は善なのか。原子力政策に、まったくなんの責任もないのか。
僕はそうは思いません。子供はともかく、大人には少なからず責任がある。たとえ原子力政策に、直接的に加担していなくても。日本で生きているということは、多かれ少なかれ、日本の恩恵を受けながら生きているということです。
その恩恵には、原発が作った電力も含まれます。日本の大人は、大なり小なり原発の恩恵を受けているのです。
そして、その情報は秘匿されてはいません。言論の自由が認められた(完全な自由とまでは言えないかもしれませんが、ここではその議論はしません)この国で、原発関連の情報は、肯定的なものだけでなく、批判的なものも、いくらでも転がっています。
なのに、知らなかったと言っていいのでしょうか。それはあまりに無責任というか、カマトトぶった態度なのではないでしょうか。
責任ある大人が取るべき態度とは、純粋な善の立場に立ったりせず、自身も責任の一部があることを認め、その有責の立場からどう行動するかを考える、というものであるべきなのです。
なのに斉藤さんは、無垢な子供のように「知らなかった」「騙された」と歌いました。それはいくらなんでも、大人がすべきことではない。
反原発なのはいいです。それなら僕も賛成です。でも、斉藤さんの切り口はよくない。罪なき善の立場から、一方的に悪を糾弾する語り口はよくない。日本の大人であれば、少なからず原発に責任があるのです。
前回も書きましたけど、「ずっと好きだった」の冒頭は、「この町を歩けば/蘇る16才」です。おそらく斉藤さんは、心の中にずっと、「16才のときの自分」をかかえているのでしょう。
16才は、まだ子供ではあるものの、じきに大人の仲間入りを果たすころで、社会のことや、政治のことに興味を持ち始める年頃でもあります。背伸びをして、政治について、いっぱしの意見を言いたくなる年頃なのです。
それは人の成長としては当然のことであり、歓迎すべきではあるのですが、知識がとぼしく、経験も少ない16才では、的確なことはまず言えません。その発言は、往々にして的外れだったりする。
的外れなことを言ってしまうのも、ある種若者の特権というか、微笑ましいものとして甘受されるべきではあります。そういった言動を見守られることで、背伸びした16才は、そのうち本物の大人になるのですから。
しかし、大人になったはずなのに、未だ子供の「永遠の16才」はどうでしょうか。いっさい成長せず、未熟さをかかえたまま、無垢な子供の発言をくり返す「永遠の16才」は。
それはもう、見てられなくないですか?いい加減大人になれよって言いたくなりませんか?僕はなります。
ミュージシャンの感性が若いのは、必ずしも悪いことではありません。むしろそれは、創造力や行動力を高く保つための、貴重な財産であったりします。ミュージシャンという職業を考えた場合、それは望ましいもの、あったほうがいいものなのです。
でも、非政治的な音楽活動から一歩はみ出し、政治について言及しだしたらどうでしょう。それは青さや未熟さを露呈し、目も当てられないほど悲惨で的外れなものになるのではないでしょうか。
僕は斉藤和義のすべてを否定するつもりはありません。単純にミュージシャンとしては、大変優れた才能を持っていると思っています。ここで問題にしているのは、斉藤さんの政治的立ち位置と、そこからくる言動です。それが幼稚で、あまりに無責任ではないかと言っているのです。
斉藤さんは、「ずっとウソだった」以降、政治の方角に舵を切ることはありませんでした。これまで通り、独自の感性で恋愛などの詞をつむぐ、シンガーソングライターに戻ったのです。
斉藤さんが「ずっとウソだった」をどう自己評価しているかはわかりませんが、政治的発言をしたり、政治に言及した歌を作ったりするようにならなかったのは、彼にとっていい選択だったと思います。16才の感性をすてられないまま、背伸びして政治に言及し続けるべきではなかった。
「永遠の16才」には、「永遠の16才」の役割があります。それは、政治を批判することではありません。16才のみずみずしい感性のまま、青臭くも繊細な歌詞をつむぐことです。それが本来の斉藤和義なのです。
政治を批判する斉藤さんは、もう戻ってこないでしょう。それでいいと思います。
16才には、16才の役割があります。いつまでも成長できない「永遠の16才」は、これからもファンの心を震わす楽曲を届けてくれることでしょう。