今日は甲斐でも下位でも華夷でもないものです。



貝が食べたくなる、そんな夜もある。朝はない。
つぶ貝は国産のアヤボラ。赤貝は国産・中国産・韓国産が混じったさるぼう貝。つぼ焼は輸入のトップシェル。アヤボラはなんとなくわかるけど、さるぼう貝はピンとこないし、トップシェルはさらにわからん。
トップシェル?貝の頂点に立つ者?
謎です。味に謎はない。美味な缶詰。
そう、謎。不思議に思ってしまう話をしましょう。もしかしたら自分だけかもしれない話。
大学受験の合格発表が、ニュースで報じられることありますよね。春先の風物詩として、おなじみの光景です。
今はネットでも発表しているようですが、通常は大学の敷地内に、合格者の番号が貼り出されます。合格発表の当日は、その掲示板の前で、悲喜こもごもの人間模様がくり広げられます。
んで、その掲示板前には、チアガールやら、ラガーマンなんかが待機してたりしますよね。チアやラグビーのサークルの部員が、受験生を祝福しに来ているのです。
合格した受験生は、チアガールやラガーマンに、お祝いを頼めるのです。チアならダンス、ラガーマンなら胴上げで祝福するのです。このような光景も、ニュースえよく流れてますので、1度くらいは見たことあるはずです。
ホントに何気ない、微笑ましい青春の一幕として、その光景は報じられているのです。
でも、僕は思うのです。なんでこんなことやってるんだろって。
不合格になっちゃった人だっているはずなのに、なんでそんなバカ騒ぎして喜べるんだろって。
掲示板の前にいるのは、合格者ばかりではありません。不合格者もいるんです。
当然ながら、不合格者は落ち込んでいます。希望がかなわず、思い描いていた進路を歩むことができなくなってしまったのですから。「これからどうしよう」などと考えているのかもしれません。
そんなふうに、不合格者は肩を落としているのです。目の前が真っ暗になってしまっている。
なのにその横で、「バンザーイ」って叫びながら胴上げするなんて。「おめでとー」って黄色い声を上げながら、ポンポンを振り回すなんて。
すぐ横に落ち込んでいる人がいるのに、なぜそんなことができるのでしょう。暗い気持ちに追い打ちをかけるような、傷口に塩を塗り込むような、そんなマネが、どうして平然とできるのか。
僕にはあまりに無神経な振る舞いに見えるのですが、チアやラガーマンはそう思っていないみたいなのです。単純に、がんばってきた受験生を喜ばせているだけ、と思い込んでいる。自分たちがしていることはサービスで、善意で祝福をあたえているだけ、と思い込んでいるのです。
たしかに、そのような側面もあるのは事実ですが、そればかりではないのです。胴上げしているその横には不合格者もいて、努力が報われずに落ち込んでいる。傷ついたばかりの心をかかえているのです。
それなのに、その真横で胴上げし、大喜びで騒ぎ散らしたらどうでしょうか。できたばかりの不合格者の傷に、塩を塗り込むようなものなのではないでしょうか。
彼らはただ、合格者を祝福して喜ばせているだけと自認しているようですが、真横にいる不合格者に、いっさい配慮していないのです。
僕にはそれが、無神経極まりない所業に思えてしかたないのです。不合格者を無視してバカ騒ぎしているようにしか見えない。配慮が欠落しているようにしか見えない。
そこには不合格者もいるのに、合格者しか見ていない。合格者にのみ焦点を合わせることで、不合格者を都合よく視線の外に追いやってしまっているのです。
そして、視界の外に追いやった不合格者、進路を絶たれて落ち込んでいる不合格者に、平気でムチ打つようなマネをしている。「見えていない」から、傷ついているのも理解できず、自分が傷口を広げているのも自覚できない。
なんだかなぁ、と思うのです。もうちょっと配慮すべきじゃないかって。
僕が気にしすぎなのでしょうか。そうかもしれません。でもここでは、仮に自分が正しいことにして、もう少し意見を言わせてもらいます。
受験に合格した。それは喜ばしいことです。嬉しくなるのは当然だし、感情をあらわにしてはしゃぎたくなるのも、ごく自然な心理ではあるでしょう。
でも、だとしても。その感情を、素直に表出していいものなのか。
はしゃぎたくなるのは当然のこととしても、「はしゃぎたいからはしゃぎました」でいいのか。
そこには、配慮が必要なのではないか。配慮によって、はしゃぎたいその気持ちに、抑制をかけるべきではないのか。
最近あまり聞かなくなりましたが、それを「分別」と呼びます。いくら合格を大声で喜びたかろうが、分別を働かせ、騒ぎたい気持ちを抑制すべきではないのか。
絶対にはしゃぐべきではない、とまでは言いません。ですが、はしゃぐのであれば、合格発表の場から離れ、不合格者ら、ほかの受験生がいない場所ではしゃぐべきではないでしょうか。
そう思えてしかたないのです。はい、気にしすぎかもしれません。
まあなんとでも言ってください。これが僕の、偽らざる考えです。
とにかくですね、気になってしょうがないことがあるのですよ。そんで気になるがゆえに、反対にほかの人達が無神経に見えるっていうことがね。
たとえば、ブザービートってあるじゃないですか。バスケットボールの試合で、終了時間直前に遠くから放ったシュートが決まって、逆転勝ちする、ってやつ。
これもたまにテレビで放送されたりするじゃないですか。んでみんな、「大逆転だ、すげえ」って、称賛しますよね。
でも僕、「逆転されたチームかわいそう」って思っちゃうんですよね。「実力とほぼ無関係な、運で負けちゃって」って。
遠距離からシュートが決まるって、そりゃ見てるぶんにはすごいことに思えますよ。でもあんなん、苦しまぎれに、「運よく入れば」って考えで放ってるんでしょ。そんでそれが運よく、ものすごい確率で入ったわけでね。
ブザービートは、ほぼ運なんですよ。実力ではない。ブザービーターに、同じ距離からシュートさせても、もう入りませんよ。100本投げても、1000本投げても、もう入らない。たまたま運よく決まっただけなのですから。
それって、そんなに「すげえ」ってほめるようなことですかね?運がいいだけなのに。
シュート決めた本人じゃなく、低確率のシュートが決まったという奇跡そのものを「すげえ」と言っているのですか?それならわかりますけどね。
なんにせよ、逆転されたチームのことも、もうちょっと考えてあげるべきじゃないですかね。そうとうくやしかったはずですから。
逆転負けしたチームの気持ちをいっさい考えず、ブザービートだけに注目して「すげえ」って言ってるの、すごく無神経に思えるんですよね。配慮がないなって。
これもまた、僕だけが考えていることなのかもしれません。だれも同調してくれない、極度の偏見なのかもしれない。それに勝負事ってのは、否応なく勝ち負けが決まるもので、ブザービートがなかろうが、負けたチームはくやしいわけで、そこを四の五の言ってもしょうがないのかもしれません。
それでもね、まったく無意味というわけじゃないんですよ。逆転負けしたチームに、同情してあげられるからです。みんなブザービート決めたチームにばかり注目して、「すげえすげえ」って騒いで、逆転負けしたチームのことは眼中にありませんが、僕は見てあげられる。「くやしかったね」って声をかけてあげられるのです。
ひとりくらい、そーゆー人、いたほうがいいでしょ?僕はそんな役目を帯びているんでしょうね。そんな役どころを引き受けるため、この世に生を受けたのです。
じゃあ、その立場をまっとうしますよ。
あとですね、斉藤和義の「ずっと好きだった」にも思うんですよ。
大人気シンガーソングライターの斉藤さん。「ずっと好きだった」は、彼の代表作です。名曲として名高く、カラオケでもよく歌われてるようですし、この歌に違和感を感じる人は、まずいないでしょう。
でも僕は、聴いてて疑問に思うのです。「これ、いい歌か?」って。
まず冒頭が、「この町を歩けば/蘇る16才」であり、全体の歌詞を鑑みれば、おそらく高校の同窓会が舞台。その同窓会で、歌の主人公(たぶん斉藤さん本人)は、「イタズラで困らせた」「俺たちのマドンナ」に再会するのです。(歌詞の全容を確認したい方は、「ずっと好きだった 歌詞」で検索してください)
ほんでだれもが知ってるサビ、「ずっと好きだったんだぜ/相変わらず綺麗だな」が来るわけですが・・・。
この歌から伝わってくるのは、とにかくそのマドンナがキレイだってことだけなんですね。「相変わらず綺麗だな」「キミは今も綺麗だ」ってリフレインしてますし。
つまりこれ、女の子が美人だっていうだけでチヤホヤしてるってことでしょ。「顔だけ見てんのかい」って思うんですよね。
同窓会で再会したマドンナに、歌の主人公(斉藤さん)はひたすらチヤホヤしてますが、その一方で、その同窓会に参列してる顔がアレな女性には、見向きもしていないわけですよね。マドンナしか見ていないのですから。
同窓会なら当然、ほかの同窓生も来ているはずで、その中にはマドンナ以外の女性もいる。んでほかの女性は、マドンナほど美人じゃないし、顔がアレだったりするわけですよね。
美人を、ただ美人というだけでチヤホヤしているのに対し、顔がアレな女性は、一瞥もされないのです。いや、「見ようとしない」のではなく、そもそも存在を認識すらしていないのかもしれません。それほどあつかいに差があるのです。
斉藤さんは「ずっと好きだったんだぜ/相変わらず綺麗だな」と歌い、リスナーはこれを「青春の淡い恋心を歌った名曲」と評しているようですが、僕はこの歌を聴くと、「じゃあ顔がアレな女性はどうしたらいいんだろう」って思っちゃうんですよね。斉藤さんから見向きもされず、ヘタしたら存在の認知すらされていない女性は。
僕の「顔がアレな女性」という表現、非常識と思いました?でもそれなら、斉藤さんの「ずっと好きだった」はどうなんですか?ただ美人だというだけで、ひたすらチヤホヤしているこの歌は。
ルッキズムと言うならば、この歌こそまさにルッキズムの極致であり、唾棄すべきものではないのですか?なのに世間は、これを名曲としている。この評価のほうが間違っているのではないですか?少なくとも僕は、美人を、ただ美人というだけでチヤホヤしたりはしませんし、顔がアレな女性の存在も、ちゃんと認知しますよ。
僕には理解不能です。美人を、ただ美人というだけでチヤホヤしているだけの、このうすっぺらな歌が、名曲と評される。世の中どうなっているのでしょう。
この歌の主人公(斉藤さん)は、「今夜みんな帰ったら/もう一杯どう?/二人だけで」とも言っており、下心丸出しです。別に同意があれば、ひさびさに再会したその日のうちに行為におよんでも、なんの問題もないのですが、でもこんな直球スケベ男の歌が、「青春の淡い恋心」と言えるでしょうか。
別にうすっぺらな内容の歌があるのはいいんですよ。でも、うすっぺらな歌詞には、うすっぺらなメロディと、うすっぺらな評価がお似合いです。うすっぺらな歌詞に、美しいメロディが乗っているのも、社会的評価が高いのにも違和感を覚えるということです。
僕だけが思っていることであり、つまりは僕が間違っているのでしょうか。
まあいいですよ。これからもヘンクツ者として生きていきますよ。