
今日はイングリッシュです。




世界は言葉でできている。言葉とはアルファベットのこと。つまりアルファベットチョコとは世界。これぞ三段論法。
徳用サイズでたっぷり入ってるから、1個、また1個と、ついつい食べ続けてしまいます。世界を食べつくさないよう気をつけましょう。
そう、言葉。言葉にかんする話をしましょう。「何言うとんじゃ」とツッコミたくなる話。
裁判長のひとことってありますよね。裁判で判決を下した裁判長が、被告に向けて、ちょっとしたメッセージを送る、ってやつ。
たとえば、「残りの人生で自分の罪を見つめなおしてください」とか、「周りの人々のために何ができるかを考えてください」とか、そーゆーやつです。
僕はあれを聞くと、いつも「なんだかなぁ」って思うんですよね。このひとこと、ホントに被告のためになってるんだろうかって。
裁判長って、社会的ステータス、だいぶ高いですよね。大学の法学部ですか?いい学校に入って、裁判官になり、出世競争にも成功して裁判長になったんですよね。
対して、犯罪者ってのは、弱い立場に置かれた人が多いですよね。家庭環境がひどかったとか、低収入の仕事から抜け出せないとか、身近に悪さしてる人がいて、悪の道に引っぱられたとかですね。自分じゃどうにもならない要因によって、罪を犯してしまっていたりするわけです。
そんな人達からしたら、裁判長ってすげー恵まれてますよね。中流以上の家庭に産まれて、質のいい教育を受けられて、安定した人生ルートを歩んでこれた。裁判長になれているのは、努力もしてきたにせよ、運の要素が大きいのです。
だから、運に恵まれず、苦しい人生を歩んできて、罪を犯すことを余儀なくされてしまった被告からしたら、運が良かった人に、これまでの苦しみをいっさい無視したうえで説教されてるようにしか思えないんじゃないか、って気がするんですよね。「恵まれてるヤツがエラそうに」「オレと同じ経験をしてから言ってみろよ」って。
裁判長の席、被告の位置より高くて、文字通り上から目線のひとことになっていますけど、恵まれてる立場から、苦汁をなめてきた立場へのお説教って、言われてるほうはすげー不快なんじゃないでしょうか。お前何様だって思うんじゃないでしょうか。
裁判長はそんなつもりで言ってないって?被告を励ましたり、立ち直らせたりしたいだけで、いばりちらしたいわけじゃないって?
まあ、そうかもしれませんね。だとしても、被告にはそれが、素直に響くでしょうか。
裁判長と被告とのあいだには、埋められない立場の差があります。「人間はみな同じ」と言ったところで、どうすることもできない厳然たる社会的落差が。
その立場の差がある以上、被告の立場からは、裁判長の言葉はどうしても「上から目線」に聞こえてしまうでしょう。それは避けられません。
なら、被告が「恵まれた立場から何をエラそうに」と思ってしまうのも避けられないし、裁判長はその事実にもっと敏感であるべきではないでしょうか。「裁判長のひとこと」を慎重に選ぶ敏感さ、あるいは、いっそのことひとことをはぶく敏感さ。
そこまできちんと考えてる裁判長はいるのでしょうか。何も考えず、「自分のひとことが被告を更生させるはず」と無邪気に信じ込んでいるのではないでしょうか。もしくは、説教するのが好きなだけとか、ひとことを付け加えることで、「オレかっこいい」って悦にひたりたいだけとか、傍聴席やメディアにむけてパフォーマンスをしてるだけとか、実は被告のことなんかまったく配慮していない人なんかもいるんじゃないでしょうか。裁判長様は、「自分が被告の立場だったら、罪を犯さずに生きてこられただろうか」という仮想をしてみたことはあるのでしょうか。
どーにも引っかかるんですよね。裁判長のひとこと。
引っかかる言葉と言えば、万引きとかでも思いますね。
スーパーでの万引き、よく夕方のニュースや警察24時みたいな番組で放送されてるじゃないですか。最近はクレプトマニアってのが認知されるようになってきたので、その種の報道も減りつつあるのかもしれませんが。
その万引きの様子、店員さんに捕まったあとのバックヤードも、一部始終として放送されるじゃないですか。そこで店長さんが、万引き犯に説教したりしますよね。「ふざけるな」だの、「こっちは一生懸命働いているんだ」だのと。
あるときそれ観てたら、店長さんが散々罵倒したあと、「もう警察に通報する」って言いだしたんですよ。僕は、「あ、通報するんだ」と思いました。たっぷり説教していたので、それでもう帳消しになるものと予想していたからです。
警察に突き出すのであれば、説教しないでサッサと通報する。説教するのであれば、「今回だけは」と無罪放免にする。そのいずれかであるのが、普通の感覚かと思っていたのです。
なので、説教したうえに通報までするというのが、ちょっとやりすぎというか、万引き犯のほうがかわいそうと思ってしまったんですね。「通報するなら、説教はカンベンしてあげればよかったのに」と思いました。万引き犯の人、ずっと泣きながら謝ってましたからね。
そりゃお店を経営してる立場からしたら、腹立たしいことこのうえないでしょうよ。受け取ってしかるべき対価なしに、商品を持っていかれそうになったわけですから。ひょっとしたらこれまで何度も被害に遭っていて、うっぷんがたまっていたという側面もあったのかもしれません。
でも僕は、「通報するなら説教しなくても」って思っちゃたんですよね。万引き犯にダメージあたえすぎなんじゃないのって。実際、反省している様子の万引き犯には、注意をあたえたうえで放免する、っていうパターンも見たことありましたんでね。てっきりそうなると予想してたんですよ。
したら、説教しておいて通報。なんかバランス感覚が欠けてるんじゃないかという気がしました。
はい、そうです。悪いのは万引き犯であり、店長さんは100パーセント被害者です。それはわかってるんですよ。わかっていても、「なんだかなぁ」って思っちゃった、ってことです。僕がおかしいのかもしれません。
似たようなケースで、オーディション番組でも同じことを感じました。
オーディション番組の審査員って、きびしい人多いじゃないですか。辛辣だったり、冷酷だったり。
その手の審査員が、アイドルのオーディションで、落選にした女の子に、「この程度でアイドルになろうと思ったのか」って説教してたことがあったんですよ。オーディション番組って好きじゃないんで、基本観ないんですけど、テレビつけてたらたまたま流れてたんです。
僕、ひどいなって思いました。どうせ落とすなら、黙って落としてやればいいのにって。
落選であれば、今後はまったくの無関係になりますよね。審査員は今後の人生で、その女の子とかかわることは、ほぼないはずです。だったら、何も言わず落としてやればいいじゃないですか。どうして傷つけたうえで落とすのでしょう。僕にはその神経が理解できない。説教された女の子は、泣いていました。
よっぽど思いやりの欠如した、プロデュース能力だけバカ高い人だったのでしょうか。追い打ちをかけるのが大好きな、サディストだったのでしょうか。人間性のイヤな部分を垣間見た気がしました。
ここに書いたこと、ぜんぶ僕ひとりだけが思っている偏見なのでしょうか。そうかもしれません。
でも思ってしまうのはどうしようもない。僕はこんな人間だってことです。
以後お見知りおきを。
今日はルーのヘラです。

やっほ~、やっほっほ~、ルーベラやっほ~♪
丸めて焼き上げたラングドシャクッキー。昔からあるっぽいパッケージですが、わりと新しい商品。古いようで新しく、新しいようで古い。
そう、古くて新しい。古く、そして新しい話をしましょう。よくわからん流行の話。
流行って、けっこう移り変わりが早いじゃないですか。特にファッション。
移り変わるからこそ流行と言うのですが、それにしても「なんだかなぁ」と思うことがあるんです。
流行を追いかけてる女の子って、過去に流行ったものを、「もう古い」って言うじゃないですか。「もう誰もやってない」って。
なんでそんなバカにした言い方すんのかな、って思うんですよね。それ、ちょっと前まで素晴らしいものとして、あなたが愛用してたんじゃないのって。
ちょっと前まで「オシャレ」「カワイイ」って絶賛してたのに、流行が過ぎたとたんに「古い」「ダサい」と言い出すのです。なんかおかしくないですか?態度変わりすぎじゃないですか?
なんでそんな、流行が過ぎたってだけで悪く言うのでしょう。ついこのあいだまで、好んで身にまとっていたのに。
そうやって流行りが過ぎたものへの態度をガラリと変えるのであれば、今現在オシャレとして愛用しているものだって、少し時間がたてば態度を変え、「ダサい」「古い」と言い出すってことですよね?なんだかなぁって思っちゃいますよ。
意味のわからん流行もありますしね。ハンドスピナーなんて、ひたすら回転してるだけで何が面白いんだって思ってましたけど、あっという間に見かけなくなりましたね。
そもそも流行なんてそんなもんだ、と言われればそれまでなんですけどね。本人たちがそれでいいと思ってるなら、口を差しはさむ筋合いもないですし。
それでも不思議に思わずにはいられないんですよ。いずれは「古い」とバカにされるようなものを、流行っているからと身につけるのって、どんな感覚なんだろうって。
若いころも、そして今も流行を追わず、ファッションセンスゼロ人間として生きてきた男の、世迷いごとでしかないのかもしれませんが。まあ、変わりもんのグチだと思ってください。おかしなヤツがなんか言ってるよって。
流行がなければファッション業界の経済も低迷するわけですし、経済的豊かさの追求のため、必要不可欠なものであるのかもしれません。
でも、流行遅れになった服って、破棄されますよね。ボロボロになったわけじゃないから、着ようと思えば着続けることはできるのに、「流行ってない」という理由だけで着なくなり、ゴミになる。
それって、だいぶ環境に負荷をかけてませんか?エコに反してるんじゃないですか?
口先ではSDGsをとなえているのに、平気でそれに反する消費活動をしてませんか?
なんだかなぁ、ですよね。流行を追わない僕は、服をボロボロになるまで着ますよ。そのほうが健全だと思いますけどね。
移り変わりの早いファッションの流行、いずれはなくなるのでしょうか。それとも、人類滅亡まで続くのでしょうか。
若者にかんして理解できないと言えば、人助けがそうですよね。
町中で困っている人を見かけたり、電車の中でお年寄りや障害者が立っていたとき、声をかけていいか迷う、という若者がけっこういると聞いたことがあるんです。「本当に困っているだろうか」「声をかけたら迷惑じゃないだろうか」と躊躇してしまい、人助けに踏み出すことができないと。
若い人のあいだでは、こーゆー考えがごく普通らしいんですね。多くの人が共感すると。
でも僕は不思議です。何を迷う必要があるのかと。
とりあえず声をかければ、それでよくないですか?もし本当に困っているのであれば、できるだけ早く助けてあげたほうがいいわけですから。
たしかに、助けを必要としていない人だっているでしょう。でもだとしたら、「大丈夫です」とか、「必要ありません」って、断られるだけですよ。
助けがいらなければ、相手が断るだけです。特に不都合なことなど、何も起きない。
だったら、とりあえず声をかければ、それでよくないですか?何を迷うことがあるのでしょうか。
僕はそうしてますよ。一瞬声をかけるべきかどうか、迷うこともたまにありますけど、基本的にはすぐ声かけします。
助けが必要なければ、相手が断るだけ。声をかけられた相手だって、別にイヤな気持ちはしないでしょう。どちらかと言えば嬉しいはずです。親切に触れたのですから。
こちらから「どうしようか」「逆に迷惑じゃないだろうか」などと、躊躇しなくてもいいのです。声かけだけなら、気持ちが嬉しいはずですから。怒ったり、拒絶したりなど、するはずがありません。
なんか、変に気を遣いすぎなんですよね、今の若者は。気を遣う方向性がおかしいというかね。
気を遣うポイント、そこじゃねえだろって思いますよ。立ち止まる必要のない手前の段階で止まっちゃってるよって。
人助けは、迷うべきではない。とりあえず声をかけてみればいいのです。
考える前に跳べ!
考えるな、感じろ!